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このページを読んだ某友人から信長特集をして欲しいとの依頼が。 しかしどう考えてもその人の方が信長に詳しい。 僕は信長も嫌いじゃないがどちらかと言えば戦国時代好き。 という訳で好きな戦国武将一覧でも作ってみようかと。 順番は思いつくまま。 さらに注意点としてうろ覚えで書いているので 間違いもたくさんあると思うのでヨロシク。 追記:プチ修正。これが限界。 武田信繁 兄の武田信玄の影に隠れがちだが僕は信玄よりも信繁が好き。誰からも好かれていたと言うし、父信虎もこちらを跡取りにしようと考えていたほど。結果的に信虎は信玄に追放されて信玄が跡を継いだ形になるのだが、最後まで兄を支えつづけた名将。真田昌幸が武田信繁にあやかって自分子供に信繁と付けた事はあまりにも有名。その真田信繁こそ天下に名高い真田幸村である。真田幸村もかなり好きな武将であるがその辺のことはまた後で。武田信繁は川中島の戦いで戦死。その死が本当に惜しまれる。死んでいなかったら歴史は変わったかもという妄想を抱いてしまうほど。 羽柴秀長 天下人太閤秀吉の弟。またまたマイナーな弟の方を選んでしまった。しかし、この羽柴秀長も兄に劣らぬ名将。温和な性格で誰からも好かれたという。言ってみれば秀吉軍団のまとめ役と言ったところか。 この人の凄いところは数々の戦に出ながら負け知らず。兄の秀吉が徳川家康に敗れているのに対してこちらは無敗。四国征伐、九州征伐を戦い抜いて無敗というのだから恐ろしい。その軍略の才能はあの竹中半兵衛も認めるところ。それなのに本人は奢ることなく最後まで兄のサポート役を見事に務める。 秀吉配下には名将が多いが、個人的には秀長こそが兄の覇業を一番支えた人物ではないかと思う。秀長は51歳でなくなるのだが、秀吉の悪名高き朝鮮出兵はその後。最大の理解者秀長を失った秀吉の反動はそれほどだったというのは考えすぎか。 島津義弘 僕自身が島津義弘が出てくる本を読んでいないのであまりよく知らない。でも数々の合戦に勝利し、朝鮮出兵では「鬼石曼子」と恐れられた猛将。とにかく強かったのだろう。しかし僕が島津義弘が好きな理由はやっぱり関が原の戦いで、後に「島津の前退」と呼ばれる退却をしたことは外せない。負け戦が決定し、退却するときに誰が敵の中央を突破するだろうか。結果的に戦には負けたが、この退却劇は薩摩隼人の心意気を感じさせてくれる。 本多忠勝 戦国の出世頭と言えばもちろん豊臣秀吉。一兵卒から天下を取ったのだからその出世たるや大変なもの。次に言われるのは徳川家康だろうか。こちらは人質生活から天下を取ったのだからこれまたすさまじい。当然、天下を取るまでには数限りない戦いがあったであろう。本多忠勝はその家康の筆頭の猛将であり、50余の戦を戦いながらかすり傷一つ負わなかったというのだから想像を絶する強さだったのだろう。 有名な言葉として「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」というのがある。また羽柴秀吉をして「東国にかくれなき本多平八(忠勝)に、西国無双の立花宗茂」という言葉もある。それだけの天下無双の武将だったと言える。 島左近勝猛 「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」。上の本多忠勝と同じような言葉が残っている島左近。当時4万石の大名だった石田三成が島左近を2万石で召抱えたというのはあまりに有名。関ヶ原の戦いではその名に恥じぬ活躍をするのであった。 後年、島左近の部隊と戦った兵士は島左近の「死ねぇー。死ねぇー。」と言う声を夢にまで見たというから凄まじい。また、島左近と戦った兵士は誰一人として島左近の姿を正確に言うことが出来なかったそうな。人間はあまりにもショックな出来事を受けると逆に記憶があいまいになると言うが、それだけ島左近部隊との戦いは激しかったということか。また最後まで三成との義に生きたというのもポイントが高い。僕の中での島左近像は隆慶一郎氏の「影武者徳川家康」に影響を受けているがこちらもオススメ。 前田慶次 ジャンプの花の慶次で一躍有名になった前田慶次。僕もその花の慶次にもろに影響を受けているわけです。もともと戦国時代好きだったこともあり、ついには花の慶次の原作「一夢庵風流記」を読み隆慶一郎ワールドへ引き込まれていったのでした。隆慶一郎氏の書く前田慶次は歌舞伎者でありながら和歌や茶を嗜む一流の文化人。さらに、一度戦場に立つと鬼神の如く敵兵をなぎ倒す一流のいくさ人。自由を愛し破天荒な前田慶次の生き様は爽やかで力強くちょっぴり悲しくそしてドラマチック。読み終わったら漢なら一度はこう生きてみたいと思わせるだけの強烈な魅力を放っている。日本人の琴線に触れること間違いなし。この作品から氏のファンになったと言う人は多いだろう。是非とも皆さんに読んでいただきたい。 直江兼続 直江兼続で有名なものと言えばやはり直江状だろう。天下人に王手をかける家康に堂々と喧嘩を売った(正確に言えば売られた喧嘩を買ったと言うべきか)直江状は後世の僕が見ても非常に爽やかでカッコいい。秀吉も兼続のことを大きく買っていたようで、彼に30万石を与えている。兼続は上杉景勝の部下であり、それに30万石とはいくらなんでも多すぎる。一説には主君景勝との不和を狙ったものとも言われているが、兼続は最後まで上杉家に仕えている。 また兜に愛の文字を掲げたりするセンスは普通に考えるといかがなものかと思うのだが彼がすると不思議とかっこよく見えるものである。そしてかの前田慶次と親友だったらしい。水と油とも思えるほど性格の違いそうなこの二人が親友だと言うのだから人間関係とは不思議なものだ。 上泉信綱 剣聖上泉信綱。柳生石舟斎のお師匠様であり新陰流の創始者。もともとは長野家十六本槍の一人として知られ、長野一本槍の感状を受けたこともある猛者。しかし長野家が滅亡すると浪人し武者修行の旅に出て新陰流を起こす。 とか言うのはどうでもよくて、僕が上泉信綱が好きなのはズバリ「信長の野望 嵐世記」の上泉信綱。これはもう本当に強いなんてものではなかった。正直バグだろと思った。そして惚れた。 以上。 真田ファミリー 真田家への思い入れは特別なのでまとめて一挙公開。 真田幸隆 真田を歴史の表舞台に押し上げたのはまさにこの人。真田幸村の祖父であり、真田昌幸の父。栄光の真田家の歴史はまさにこの人から始まった。権謀術数で一代で武田の重臣を勝ち取った手腕はおそらく武田家随一。信玄が敗れた戸石城を1日で落とすという華々しいデビューにも痺れる。 「信長の野望 嵐世記」の初期シナリオではまだ武田家には仕官しておらず国人衆のまま。そして信濃を手に入れるとある意味自動的に仲間になったようなもの。僕は毎回信濃目指してまっしぐらでした。なので非常に愛着があるキャラクター。さらに言うと美形で言うことなし。 真田昌幸 幸隆の三男であり、幸村の父。もともとは絶家となった武藤家という家を継いでいた。そのときには信玄に「我が目」と言わしめるほどの信頼を集めていた。一方、真田幸隆の長男信綱は武田二十四将に選ばれる程の強者。次男昌輝も強かったらしい。しかし、長篠の戦でこの二人が死に家督を継ぐことになった昌幸。ここからこの人の苦労が始まるわけです。 周りを大大名で囲まれた真田家を維持するのはさぞ苦労があったことだろう。上杉・織田・徳川・北条。いつ滅んでもおかしくないような状況だが、巧みな外交戦略で生き残る。さらに信之・幸村といった立派な息子たちにも恵まれ真田家は大名となり家を残すのである。 真田信之 昌幸の長男であり、幸村の兄。徳川との和睦として人質に出され家康に出会う。家康に出会った信之は、以後家康に忠節を尽くした。関ヶ原では父昌幸と弟幸村が敵方である西軍に付いてしまった。関ヶ原は東軍の勝利に終わり、父と弟の助命を願い出る。池波正太郎の小説「真田太平記」では本多忠勝が「助命を認めてくれなければ殿と戦う」というシーンは痺れるものがある。別の小説ではこの役回りは別の徳川四天王が行うこともあるようだが、どちらにしても信之が徳川家の中でいかに信頼されていたかを示すエピソードなのではないかと思う。 信之は長寿だったらしく93歳まで生きている。二代将軍秀忠は真田昌幸に踊らされて、関ヶ原遅参という屈辱を味わっていて真田家がさぞかし憎かったであろう。その真田家が無事明治まで残ったのはひとえに、長寿であった信之が最後まで睨みを利かせていたではないか。真田家にとっては信之が一番の恩人なのかもしれない。 真田幸村 ついにやってきました真田幸村。信之の弟。最初のときに書いたように本名信繁。でも幸村の方が有名なので幸村で。 幸村が最も輝いた瞬間と言えばやはり大阪の陣。冬の陣では真田丸を築き名を上げる。そして迎える夏の陣。後藤又兵衛と藤井寺で合流する手はずとなっていたが濃霧のため間に合わず先発の後藤隊は全滅。それに奮起した真田軍の働きは素晴らしかったが、軍命により退却。幸村はしんがりを買って出たが、追撃する東軍はいなかったそうな。そこで言った「関東勢百万も候へ、男は一人もなく候」という言葉がまた痺れるわけです。 そして次の日には赤一色に染めた軍勢を率いて徳川軍と戦うのある。鎧を赤く染めるというのはただ単に色を変えたという話しではない。赤く染めた軍団といえば飯富虎昌の赤備えに始まり、弟山県昌景に伝えられ、武田滅亡後は井伊直政に吸収されていくわけなのですが、赤い色というのは戦場でも否が応でも目立ち、敵の狙いの的となる。それでもあえて赤色を使うというのは「我は最強なり。」という強い自負と、「誰でもかかって来い。相手になる」という覚悟があるのではないか。そんな赤備えの真田軍団はあの家康を後一歩の所まで追い詰め、切腹すら覚悟させたという。その戦闘の見事さから髪の毛一本にいたるまで奪い合いになったというのだから、真田軍の活躍がどれだけ際立っていたかがうかがい知れる。 そして「真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由」という評価につながるのである。この評価を下したのが島津家の薩藩旧記だというからなお熱い。敵軍の真っ只中を通って撤退するような軍隊がこのような評価を下したのだ。という訳で幸村は僕の中での好きな武将No1なのです。 この文章を書くのにお世話になった本、サイト等。 ☆信長の野望 嵐世記 武将FILE 僕の中でNo1戦国ゲームの武将FILE。 嵐世記は歴代信長の野望の中でも登場武将が多い。 マイナー武将にまで説明が付いていて読んでいて面白い。 そしてどの文章も非常に惹きつけられるものがある。 僕が戦国時代を好きになるきっかけになった本。 ☆隆慶一郎先生の作品全て 一夢庵風流記から隆慶一郎作品にはまった訳ですがどの作品も非常に魅力的。氏の作品はどちらかといえば歴史の表舞台に上らない人を選んでいるようで、登場人物に固定されたイメージがないのが魅力的かもしれない。 ☆真田太平記 実は全十巻と長いため全部は読んでいない。 けど関ヶ原~大阪の陣は非常に面白かった。 真田好きのきっかけを作ってくれた本。 ☆戦国浪漫 膨大な量の知識が載っている。 管理人様の知識には脱帽。 面白い読み物も多いので戦国好きな方には非常にオススメ。 ☆六文銭 真田Loveなサイト。 真田家について非常に詳しく書いてあります。 ただ昌幸、幸村が出来上がっていないことが残念。
by sugar_hurler
| 2005-06-22 21:50
| 日記
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